こんなことを陰で言われることがある。
(さすがに、面と向かってわいなれないが、こういうことは、なぜか伝わってくる。)
「あのお母さんは、子どもの障害の受容が、できていないからね~。」
とくに「自分は専門家よ。」
と勘違いしている人に言われることが多い気がする。
「障害の受容」って何?
あきらめること?
「助けてください。」っていうこと?
そうすればすべては解決するの?
誰かが、助けてくれるの?
多分、
「障害の受容について語る人」は、
全然、
障害を持つ子どもの親の気持ち、なんかわかっていないと思う。
「いつ受容するの?」「何を受容するの?」
「障害の受容について語る人」に聞いてみたい。
「あなたは、自分の一番つらいことを、受容できているの?」
受容に代わる言葉を探すとしたら、
それは、その時々で
「何とか心に折り合いをつけていく。」
ということだと思う。
発達障がいを持つ子どもを育てていると、
そうでない子どもの場合は「楽しみ」になることが、
試練の場になることが、とても多い。
おゆうぎかい、運動会なんかは、試練以外のなにものでもない。
配慮をしてくれる場合はまだましだが、
まったく配慮がない場合は、
公衆の面前で泣きわめくことになる。
配慮をしてほしいと伝えたら、
当時はモンスターペアレント扱いだった。
仕方ないから、できるだけ目立たないように、
何事もなく無事に終わったら、それで充分という感じだった。
泣きわめいたときは、
子どもをつれて、どこか目立たないところで落ち着くまで過ごす。
「その場では心の中で涙を流し、あとで一人で泣く。」
って感じだったな。
もう、その時、その時で、
「自分の心に折り合いをつけていく」だけだった。
小学校のころ、
めずらしく友達と自転車で出かけたのだが、
泣きながら帰ってきたことがあった。
「遠くまで行って、そこでおいていかれた。家に帰る道がわからなかった。」
「いじめるために誘ったんだな。」
と思ったけれど、娘はうまく説明することはできない。
だれよりも、友達が欲しい子だった。
相手の親たちに言ったところで
「そんなつもりは全然なかったみたいよ。」とか
「はぐれちゃったらしいの。」
と言われてしまえばそこでおしまい。
そして
「親が細かいから子どもが変わっているのよねー。」
という感じで噂されて、そうでなくても苦しい立場がより追い込まれる。
仕方がないから
、何とか、娘を元気づけて、
自分の心にはナイフが刺さったままだけど、
折り合いをつけるしかない。
どうやって折り合いをつけたのかは思い出せない。
そうやって「特性」と言われることから起きるエピソード、
ひとつひとつに折り合いをつけていく。
それは、今だって変わらない。
専門家ぶって「あの人は、障害の受容ができていない。」っていう人に聞いてみたい。
「障害を受容するってどういうこと?」
「あなたは、自分の一番つらいことを受容できているの?」
「あなたのその中途半端な専門性が、誰かを傷つけていない?」
コメント